ある日突きつけられた事実

 響に発達障害があるとわかったのは、小学校3年生のときでした。

 担任の先生から「お話がある」と連絡を受けたわたしは、急いで小学校へ向かいました。通された応接室で待っていたのは、担任の若い先生と、初めてお目にかかる年配の先生でした。

 「お呼び立てして申しわけありません」

 担任の先生が話し始めました。

 「ご存じなかったかもしれませんが、じつは響くん、授業中に、教室の床をゴロゴロ転がっているんです」

 うかがった内容は、こうでした。

 若い先生の受け持つクラスは、少し〝にぎやか〟な感じで、授業中に騒ぎ出してしまう生徒が数人いる。子どもたちがそういう状態になってしまうと、響はとつぜん、教室の中を歩き回ったり、床に寝転がったり、ひどいときには教室から出て行ったりしてしまう。

 響が大きな音、とくに甲高い騒音を苦手なのは知っていました。でもまさか、そんなとっぴな行動をとっているとは思ってもいなかったので、わたしはちょっと言葉を失ってしまいました。

 気を取り直し、「申しわけありま、」と言いかけたとき、年配のほうの先生、その後も長いお付き合いとなるK教諭が、謝罪の言葉を制してこうおっしゃったのです。

 「驚かないで聞いていただきたいのですが、響くんには、ひょっとすると発達障害の傾向があるかもしれません」

 恥ずかしい話ですが、「発達障害」という言葉を知らなかったわたしは、頭の中が「?」でいっぱいになってしまいました。聞けば、K先生は、支援学級を受け持たれている養護主任とのことでした。たまたま響のようすを目にしたK先生は、すぐにピンときたようです。

 「ご紹介しますので、いちど専門の病院でお話をされてはいかがですか?」

 K先生は、発達障害を専門としている女医さんを紹介して下さいました。医師の旦那さんは脳の専門医で、発達心理と脳の状態をどちらも診てくれるから、と推薦して下さったのです。

 さっそく連絡を取ってみたのですが、有名な病院だったらしく、やっと取れた予約は半年後でした。だから、診察を待つ半年のあいだ、わたしと夫は「発達障害」について調べてみようと思い立ちました。

症例は〝響の行動〟そのもの

 その時の気持ちを、うまく表現することができません。とにかく、目からウロコが落ちるなんて騒ぎではありませんでした。発達障害のお子さんをお持ちの親御さんならきっとわかっていただけると思うのですが、当てはまること当てはまること。思わず笑っちゃうぐらい、〝響のこと〟が書いてありました。

 ああそうなんだ、響は「発達障害」だったんだ。響の奇妙な行動の謎がすべて解けたような気がしました。

 公園でお腹いっぱいになるまで水風船を食べちゃったり、落ちている木の枝をかじって「この木の味、お母さん知ってる?」と言ってみたり。夜、ぜんぜん寝ないのもぴったりと当てはまりました。思い返してみれば、響には時間の感覚がないし、暑いとか寒いとかもわかっていない感じでした。真冬なのにものすごい薄着で「えっ、寒くないよ?」なんて平然としていました。

 奇妙なこだわりもありました。2歳頃の響がお気に入りだったのは、洗剤の空き容器を並べる遊びです。

 たくさんの洗剤をお気に入りの角度に並べると、それをいったんバラバラにして、また並べ直す。それを5時間も6時間もえんえんと続けていました。

 家のテーブルに並べるだけならまだ良かったのですが、困るのは、出かけるときにもかならず洗剤を持ち歩かなくてはならなかったことです。どこへ行くときでも、右手にシャンプー、左手にはリンス。それだけじゃありません。街で洗剤のロゴマークを見つけた時には、その実物がないとパニックを起こし、大声で泣きじゃくります。だから、わたしたちの自家用車にはいつも、段ボールに入った響の洗剤セットが積んでありました。

 でも、同じ洗剤の用意がないときだって当然あります。そんなときは響を抱っこしてコンビニやドラッグストアに走るのですが、買えたならまだラッキー。旧デザインなどで見つからないときは大変でした。東京にいても、すぐ群馬の家まで引き返す羽目になるのですから。家に到着してその洗剤の容器を手にするまで、響は泣き続けていました。

こだわりが強過ぎる

 保育園にも通っていたのですが、当初はまったくなじめませんでした。響は、お歌もお友達の名前もまったく覚えられないのです(名前に関しては小学校に行くようになってからも同じで、幼馴染みの名前を呼ぶときには、教室の後ろに貼ってある名簿を毎回確認していたといいます)。

 ずっとグズっている響に保育園の先生もちょっと手を焼いていたらしいのですが、ある日、保育園で取っている新聞に挟まっていた薬局のチラシを見ると、ピタッと泣き止んだらしいのです。それからは、通園リュックにはかならず薬局のチラシを入れていました。

 先生と一緒に洗剤を指さしながら、「ライオン、花王、ピーアンドジー」などとやっていたようです。さいわい、その遊びに熱中したおかげで、「チラシを見るから早く行く!」と、保育園通いを楽しみにするようになりました。

 次に、3、4歳になると、今度は携帯電話に興味を持ち始めました。小さい響が携帯を使えるわけもなく、もちろん、買い与えたわけでもありません。街行く知らない人たちが使っている携帯電話を指さし、「ドコモ〇〇、ボーダフォン××、エーユー▲▲……」と機種名を言い続けるのです。「どこに遊びに行きたい?」と聞けば、響の答えは「ドコモショップ!」。

 連れて行くと、カタログや携帯電話の模型を片っぱしから貰ってきて、一日中眺めていました。

 とてもおとなしく、親に逆らったりするようなことはまったくなかった響ですが、こだわりというか趣味に関しては絶対に譲らないのです。そういうところも、本などに出ている「発達障害」の症状そのままでした。

道具があれば大丈夫

 半年後、ようやく医師と会う日が来ました。響と先生が面談し、脳の検査などをひと通り行ったあと、先生はわたしを呼び出し、しばらくわたしの話を聞いてから仰いました。

 「ほぼ間違いなく、発達障害です。アスペルガー症候群に当たると思います」

 覚悟はしていたものの、そこまではっきりとわかるものなの?といぶかしく思っていると、先生は「こちらをご覧下さい」と検査結果を示し、

 「響くんは、定型のお子さんと比較して、『できること』と『できないこと』の差がとても大きいようです」

 と、細かく説明をしてくれました。

 〝個性〟と呼ぶにはちょっと度を過ぎているその結果に、わたしも「確かにこれは無理だなあ」と納得したのです。

 続けて先生は、

 「脚が悪ければ杖や車いすを使いますね? 耳が悪ければ手話を学んだり、補聴器を使ったりします。そういう『わかりやすい障害』と同じように、外見からは『一見わからない障害』もあるんですよ」

 とおっしゃいました。さらに、

 「響くんには、言ってみれば脳に動いていない部分があって、それは動かない脚や聞こえない耳と同じなんです」

 と説明してくれました。

 「だからね、お母さん。響くんの脳の欠けている部分に合う、車いすや補聴器に当たる〝道具〟を、これから一緒に探していきましょう」

 わたしにはその言葉がとても前向きに聞こえ、〝道具〟があれば大丈夫なんじゃないか、と少し安心したのです。

 家に戻り、夫に医師から受けた説明を話すと、意外な反応が返ってきました。夫は、響は障害じゃない、というスタンスを取ったのです。

 「われわれの導き方しだいで小学校の勉強や運動ぐらいはできるようになるんじゃないか」

 というのが、当時の夫の意見でした。

夫婦が自営の道を選ぶまで

 わたしは、26才から自作の洋服を売り始めました。響が5歳の頃です。まったくの独学で、だれかに習ったことはありません。

 お気に入りの服をニッパーで分解して、型紙を取ってそれをまた縫い直す、というような感じで、少しずつ覚えていきました。と言っても専業主婦だったので、作り始めた当初は、家族のための服だけを縫っていました。

 夫はサラリーマンでしたが〝ものづくり〟の好きな人で、自分たちのものは自分たちで作ろう、という気持ちが強く、パンやうどんをこねたり、野菜を育てたり、陶芸教室に通って食器を作ったり、響のためのおもちゃを作ったりしていました。

 とにかくふたりとも、お金じゃなくて手間をかけよう、というような、なかば自給自足みたいな気持ちで日々を過ごしていたのです。響もまだ小さかったので、庭に野菜があるのは、買い物に行く手間が省けてとても助かっていました。

 セルフメイドの服作りでなにが困るかと言えば、気に入った色の生地が手に入りづらいことでした。ふたりとも麻がとても好きだったのですが、生地屋には当時、黒とか白とか、オーソドックスな色合いの麻生地しか売っていませんでした。

 そういうとき、じっとしていられないのがわたしたちの性分です。いまにして思えば不思議な偶然なのですが、いっちょ染めてみるか、とはじめたのが、コーヒーを使った染色でした。

 なんでも器用にこなす夫ですが、とうぜん、いきなりうまく染められるはずもありません。でも逆にそれが彼の心に火をつけたようで、それから毎晩、ああでもないこうでもないとふたりで工夫をしながら、染色に手を染めていったのでした。

 服を売ることになったのは、ほんとうに幸運な偶然が重なってのことです。家族で街に出かけたとき、以前より知り合いのショップオーナーさんにたまたま会ったのですが、その方がわたしのワンピースを見て「それ、どこの服?」と尋ねたのです。

 自分たちで作ってるんですよ、と答えると「うちに置いてよ」と言ってくれたので、まさか売れるわけないだろう、と半信半疑ながら、とりあえず手元にあった3着を置かせてもらいました。

 すると夜、電話がかかってきました。なんと、その日のうちにぜんぶ売れてしまったと言うのです。その後も、持っていったそばからどんどん売れてしまうので、洋服販売を本気で考えるようになりました。

 ショップオーナーさんのご縁もあり、夫の仕事が休みの毎週土日、当時流行り始めていた、生産者が造ったものを直接手売りをする「ファーマーズマーケット」や「クラフトマーケット」に出店を始めたのです。

 そういうマーケットの面白いところは、出店者が別の場所では主催者になっていたりして、ご縁がどんどんつながっていくことです。知り合ったいろいろな方にご招待いただき、群馬県内はもちろん、新潟や静岡など、日程の許すかぎり他県へも足を伸ばしました。

 最初の頃は月に10万円を売り上げるのがやっとでしたが、パートに出るよりは気楽だろうという考えで、お客さまと直接お話をしながら商品ラインナップや売り方を工夫して、少しずつ売り上げを伸ばしていきました。

 月の売り上げが順調に増え、家族5人が食べていけると判断した夫が会社を退職し、屋号を「リップル洋品店」に決めたのは、販売をはじめて4年目のことでした。それは響がアスペルガーと診断された年でもあります。

救急車でお祭り騒ぎ!?

 響には弟がふたりいます。服が初めて売れた年に次男が、3年目に三男が誕生しました。

 三男が生まれた直後、いま思えば象徴的なできごとがありました。

 それはちょうど、洋服の販売が軌道に乗り始めていたタイミングで、出産直後にもかかわらず無理を続けていたわたしは、体調を崩して倒れてしまいました。そのときは運よく夫の両親が来ていたので、救急車を呼んでもらって大事には至らなかったのですが、意識が戻ってから夫が話してくれた、〝その時〟の子どもたちの行動がなんというか、すごくおもしろかったのです。

 生まれたばかりの三男はとうぜん泣くばかりですが、次男は「お母さんに何かあったに違いない」となぜか大量のティッシュを持ってきたと言います。

 そして、響です。彼が何をしていたかと聞けば、2階でゲームをしていたらしいのです。いざ救急車が到着し、救急隊員がわたしを担架に乗せたとき、楽しそうに階段を下りてきた響は、「お祭りみたいだ! お母さんすごい!」と、気を失ったわたしを見て大はしゃぎしたと言います。

 さらに、職場から慌てて帰ってきた夫に向かって、「えっ、お父さん、深刻な顔してどうしたの? 笑うとこでしょ?」という主旨のことを言ったとのことでした。

 わたしはそれを聞いて大笑いしたのですが、夫は「あの子、やっぱりちょっと変なんじゃないか」とすごく心配していました。その時に気付けば良かったのかもしれませんが、根っから楽天的にできているわたしは、それが響なんだから、とあまり気にも留めていませんでした。

夫と比べて楽観的だった理由

 じつは響の成長について、わたしはそこはかとない〝自信〟を持っていたのです。6歳の頃、ひらがなが書けない響を心配して「ここ、なぞって」とノートに練習させたときも、そのときは何度言っても書けなかったのですが、ある日とつぜん、ひらがなだけではなくカタカナもローマ字も書けるようになっていました。

 だからわたしは、「ずっとできなくて、急にできるようになるのが響なんだ」と理解していました。

 夫は「そんな人間いるわけない」とやっぱり疑問に思っていたようでしたが、入学した小学校の先生や、当時かかりつけだった小児科の医師など、みな一様に「成長は人それぞれだから、大丈夫ですよ」と言ってくれたので、安心してしまっていた部分があったのだとおもいます。

 自信の理由は、もうひとつありました。それは、わたし自身が「変わった子」だったことです。

 子供の頃のわたしには、家のまわりを3周しないと玄関に入れないという変な癖がありました。あと、友達の家に遊びに行っても、タオルを使うことができなかったりもしました。それは潔癖とかではなく、自分の気に入った物しか使えなかったからです。わたし自身が「寝ない子」だったというのも母から聞かされていました。

 「あなただって、育てにくくて大変だったんだから」と母は繰り返し言っていました。行進で手と足が揃っちゃう、病的に運動オンチなところも響と一緒でした。

 だから、わたしだってここまでなんとか生きてきているのだし、響もなんとかなるだろう、と楽観していたのです。

パニックを起こす一番の要因

 アスペルガーの診断を受けてからは、響の巻き起こすできごとをノートにまとめ、医師に話すようにしていました。響の相談が半分、わたしのカウンセリングが半分のような感じです。

 アスペルガーと診断された翌年からはK先生が担任になってくれたこともあり、いろいろなエピソードが耳に入るようになってきていました。

 例えば、4年生のとき。夏休みが終わって、宿題を先生に見せるために並んでいたらしいのですが、前から20番目ぐらいにいた響がとつぜん、宿題を床に叩きつけて教室を出て行ってしまったらしいのです。

 K先生は「今日はちょっと、落ち着くまでに時間がかかりましたよ」と仰っていて、そのことを医師に話すと、医師は響に向かい「それはさ、自分の順番が回ってこないかも、って思ったんだよね?」と問いかけました。響は「そうなんです」と答え平然としていました。医師はわたしに向き直って、「お母さん、そういうときはなるべく具体的に『あと何人だよ』とか、『給食を食べ終わるぐらいの時間だよ』とか言ってあげるといいんですよ」と教えてくれました。

 「響くんがパニックを起こしたり床に転がったりするときは、それは不安を感じているんです。とりあえず落ち着こうね、となだめて、不安なことをプラス方向に、細かく具体的に説明すると良いですよ」

診断を受けてよかったこと

 わたしは、そうやって医師から翻訳してもらうことで、少しずつ響の内面を理解できるようになっていきました。アスペルガー症候群と診断を受けることも悪いことばかりではなかった、と思いました。こうやって説明を受けることもできるし、何より、「わたしの育て方のせいだ」という思い込みから解放されたことが大きかったのです。

 でも、医師はこうも言いました。

 「お母さんがわからない以上に、響くんもお母さんの感情を理解できないんです。そして、それは一生わからないかもしれない。感じてはいるんですよ。ただ、脳で理解することができないんです。だからね、お母さんもご自分の感情を具体的に、はっきりと説明してあげて下さい」

 響とは〝気持ちが通じ合う〟ということはないのだと悟り、それは大きなショックでした。嬉しいときは「嬉しい」って言って笑うんだよ、とか、そういうことも教えないとわからないんだと知るのはすこし切なくもありましたが、育て方に大きな変化をもたらしてくれました。

 でも、夫にはまだそれを受け入れるのが難しかったようで、その後もたびたび、わたしたち夫婦は衝突を繰り返しました。