障害がわかった後、そこからどうするか

 私は妻にくらべ、現実的で慎重な性格なのだと思います。

 響にアスペルガー症候群の診断が下されたときも、「自分の育て方のせいじゃなかった」と安心したようすを見せる妻に対して、正直に言えば、少し違和感を覚えていました。私は内心、「で、そこからどうするんだよ」と思ったのです。

 発達障害だというのはわかった。でもそれって、治療や訓練でどうにかなるものなのか?というのが、そのときの率直な感想です。

 知識として、アスペルガーが一生涯、治らないものであることはわかっていました。本やウェブサイトにはよく、「発達障害は『脳の癖』みたいなものであり、根気よく『できること』を増やしていくしかない」という主旨のことが書いてあります。

 でも、だからこそ妻の「ありのままの響を受け入れる」という姿勢では、響は遅かれ早かれ社会からはじき出されてしまうのではないかという懸念が私の中にありました。響の「できること」をひとつでも増やしたい、受け入れてくれるコミュニティを見つけたいと考え、私は行動することにしました。

 私は「それが響なんだから」と理解を示す妻とは反対に、多少厳しくても社会の〝現実側〟を見せなくてはならないと考えました。家業である洋服店のお客さんに紹介していただいた障害児コミュニティや、知的障害のある子どもたちの施設で行われる文化祭などへ、響をつれて何度も足を運びました。

 しかし、これは今でもずっと付きまとっている悩みなのですが、そういう子たちの中では、響はあまりにも〝健常者〟のように見えてしまうのです。私たち家族は、響の抱える問題や奇妙な行動をつぶさに知っています。

 ですが、アスペルガーという、いわば「内面」の障害は、家族以外の人にはあまりにも伝わりづらく、理解されがたい。

 もちろん、そのことを責めたいわけでも、ましてや誇りたいわけでもないのです。ときには、私たち夫婦ですら「怠けているだけなんじゃないのか?」と考えることがあったぐらいですから、そう見えるのは仕方のないことなのですが、他の親御さんたち、とりわけ健常児を持つ親御さんから「うちの子だってできないよ」とか「開人さん、ちょっと厳しすぎるんじゃない?」と言われるのは、ときに大変つらく感じました。親として、響が健常者として扱ってもらえることがありがたいと思ういっぽう、響の障害の伝えづらさは、彼の未来に大きな困難をもたらす予感があったのです。

「ふつう」に振る舞おうとしてしまう

 さらに難しいのは、響自身も、自分が〝ふつうじゃない〟ことを受け入れるのに抵抗を感じていることでした。必要以上に「ちゃんとしよう」という気持ちが強く、わかりやすくいえば、「格好付けて」しまうのです。

 かといって偉そうにふるまうわけではなく、自分のひとことでだれかを傷つけないように、失礼のないようにしよう、という気持ちがあり、なるべくおかしな行動を取らないように、と考えて行動するので、彼はいつも疲れ切っていました。

 学校の勉強についても、内容の理解はできているのですが、どうしても字が書けない。正確に言えば、書くのに異常に時間がかかってしまったり、どこに書けば良いのかわからなかったりします。

 わかっているのに、自分が思ったり考えたりしたことをうまく表現できないようすは、見ていてつらいものでした。

 響が〝ふつう〟にふるまいたくなる気持ちも痛いほどわかるのです。学校では「劣等生」扱いされる彼ですが、知能テストでは正常値を示す項目も少なからずあって、平均より高いレベルに達している部分すらあったからです。医師はよく冗談めかして「響くんはご両親より知能が高いんですよ」と言っていました。

 たしかに私も、とりたてて勉強ができたわけではなかったし、どちらかというと野球に熱中していたほうです。だからこそ響に対して、「やればできるんじゃないか?」という疑念が拭えませんでした。響にしても、私たちの期待に応えるために〝ふつう〟に見えるよう振る舞うことを、自らに課していた部分があるのだと思います。

 野球といえば、私はいちど、響をキャッチボールに誘ったことがあります。笑わないでいただきたいのですが、私には昔から、男の子が生まれたら一緒にキャッチボールをしたいという、若干古めかしいような、いわば〝ベタ〟な夢がありました。

 しかし、いざ響を広場に連れて行ってグローブを着けさせ、手始めにポン、と軽くボールを投げてみると、彼はキャッチするどころか、頭を抱えてしゃがみ込んでしまうのです。

 えっ、と驚いたのですが、まあ初めてだからしょうがないか、と気を取り直し、転がっていったボールを拾わせて、もっと近い距離から、こんどは響にボールを投げさせてみました。

 すると、まるで遠投でもするように、私に向かって全力で投げ込んでくるのです。これには腹が立つというより呆れてしまいました。妻はやっぱり大笑いしていましたが。

 すでにアスペルガーの診断後でしたので、このことを医師に話してみました。すると医師は「お父さん、いま隕石が降ってきたらどうします?」と言います。

 「ちょっとポーズを取ってみて下さい」

 私はその場で、頭を抱えた姿勢をとりました。

 「そう、それです。響くんには、お父さんの投げるボールが、まるで隕石みたいに見えているんですよ」

 先生の説明によれば、響には、ボールが隕石やボーリングの球のような巨大で危険な物体に見えているらしいのです。目が見えないわけではない。だけど、捉え方がちがう。

 私には簡単に思えるキャッチボールすら、響にはできない。そういう、ひとことではちょっと説明しづらいような「できないこと」が、響と私たちを難しい場所に追い込んでいました。

居場所があった小学生時代

 それでも、小学校の後半は響にとって〝幸福な子供時代〟だったと思います。K先生と出会い、4年生は担任に、その後も学年主任として目をかけていただけたことが、少なくとも響を〝いじられキャラ〟にとどめておいてくれたからです。

 K先生の(響の言葉を借りると)「コーディネート」はみごとなものでした。筆記のハンデを理解して紙に線を引いてくれたり、図工の時間には、課題とはまったく違う絵を描いてしまっても「それが響くんの個性だ」とクラスの雰囲気を導いてくれたと聞いています。

 もちろん、プライドの高い響にとって、悔しいできごとも少なからずあったと思います。クラスメートに「おバカ」などという、あまりにも心ないあだ名を付けられたこともあるようです。テレビをいっさい観ない響が、その裏側にある〝おバカタレント〟なる当時の流行も知るはずはないわけですから、彼の心中は察して余りあります。

 それでも響は、小学校時代を楽しく温かい時間だったと記憶しているようです。響が嬉しかった思い出として話してくれたエピソードがあります。

 K先生は、響が床の拭き掃除をしていると『響のぞうきんがけはきれいだなあ!みんなも見習えよ』と褒めてくれた。響は、自分の拭き掃除がべつに取り立てて上手なわけじゃないことを知っていたが、そうやって大げさに褒めてくれたおかげで、クラスでも『響は掃除がうまい』ということになり、居場所ができた。

 忘れっぽい響が覚えているぐらいなので、よほど嬉しかったのでしょう。しかし、小学校では幸運にもかろうじて受け入れてもらえて、居場所を得ることができましたが、中学校からはどうするんだ、という不安は拭えませんでした。

 小学校では、どちらかといえば妻のアプローチ、つまり「それが響くんだから」という扱いをしてもらうことができました。でも、中学校に上がればそうはいかない。男親としての私には、それが不安でした。

 話はずいぶん戻りますが、妻がアスペルガー症候群の診断に「ホッとした」と言ったのは、「あなたが〝ふつう〟じゃない生き方をしているから、響くんもそれに影響されているんだ」と、育児を責められてきたことが根底にあります。じつは私も、決して〝ふつう〟で〝順調〟とは言えない生き方をしてきたために、同じようなことを言われたことが少なからずありました。

生き方に疑問を持った若かりし頃

 私は、高校を卒業してしばらく、いわゆるフリーターのような感じで転職を繰り返していました。初めて定職に就いたのは22才のときです。地元・桐生の農協に就職して、ガス関係の仕事をしていました。

 職場の先輩に「生活に絶対に必要なものだから覚えておいて損はないよ」と助言され、ガス工事の資格を取りました。農協では、集金に始まり、メンテナンスからガス工事まで、すべてをやらせてもらいました。

 吸収合併で農協がなくなったのを機に、ガスの資格を活かして、こんどは地元の小さな工務店に転職しました。そこではさらに、電気と水道の資格も取得しました。手に職をつければ、少なくともその分野ではエキスパートとして扱ってもらえる。そういう感覚は悪くないなと思ったのです。

 小さい工務店だったので、インフラ関係の工事にとどまらず、現場監督や内装、インテリアのデザイン、果ては営業までもやっていました。仕事を覚えるにつれて忙しさは増し、インフラ関係の仕事ということもあって、休日や夜間に緊急の呼び出しがあればすぐさま駆けつけなくてはならず、当時は酒を飲むこともできませんでした。

 これは響が誕生した頃からなのですが、多忙を極めるなかで、稼ぎ方というか、自分の生き方に矛盾を感じ始めました。いっしょに暮らすために家族になったのに、仕事のために家を空けなければならない。せっかく子供が生まれて、いちばん必要とされている時期に、仕事や残業でいっしょにいられない。

 当たり前のことなのですが、私にはそれがどうしても受け入れられませんでした。

 さらに、たとえば家を建てるということにでもなれば、妻もパートに出なければならなくなります。家族がいっしょに過ごす家を建てるために、家族がバラバラになってしまう。家づくりに携わっていたせいでもあったかもしれませんが、この事実に大きな矛盾を感じたのです。

 私は、1分でも多く家族と過ごすためにはどうしたらいいか、と考えるようになりました。「100円のものを買うために100円を稼ぎに行くのではなく、100円のものを自分たちで作ってしまえばいいんじゃないか」という考えに至ったのは、そういう理由からです。

 ちりも積もれば、ではないですが、ごく簡単なものであっても、手間さえかければ、家族が長くいられるようになるんじゃないか。当時の私はそう考え、若気の至りと言ってしまえばそうなのかもしれませんが、身の回りの物を自分たちで作るようにしたのです。

 服づくりもその延長です。使い捨てではなく、できる限り長く着られるものがほしい。服飾デザインを勉強したわけではありませんから、できるだけシンプルに、だけど自分たちらしい服を手に入れたいと考えました。

突飛なアイディアを実現させる役目

 どこで特徴を出そうか、となったときに、「だったら染めちゃえばいいじゃん」と言い始めたのは妻です。どうやって染めるの?と私が聞くと、ちょっと考えた妻は、「そのコーヒーで良くない?」と言いました。確かに私はコーヒーが好きで、作業のあいまには常に淹れて飲んでいたのですが、それで「染める」というのは考えつきませんでした。

 妻はいつもそういう感じで、私が思いもつかないような突飛なアイデアを思いつくのですが、経験上、やってみるとあんがい面白くなることが多いのです。

 じゃ、やってみるか、とコーヒーで染めてみたのですが、当然はじめからうまく行くわけもなく、洗濯するとすぐに色落ちしてしいました。

 でも、あきらめるのはシャクなので、私は営業の仕事の合間をぬって書店に行ったり、妻も主婦仕事のかたわらでいろいろと染色の知識をたくわえ、なんとか成功にこぎつけたのです。

 コーヒー染色をきっかけに、有名なハイブランドの色なども研究して、染められる色がどんどん増えていきました。仕事から帰った毎夜ごと、私たちは染色と服作りに没頭しました。

 お金もなく、趣味や娯楽も他にはありませんでしたが、そうやって自分たちで楽しみを発見して生活を作っていくことが、当時の私たちの生きる糧となっていました。

 思えば、妻と出会った頃も、私は彼女の言い出す〝突飛なアイデア〟に面食らってばかりいました。食事に行って会話をはじめると、あれをやりたい、これをやりたい、あそこに行きたいと、なんだか夢のようなことばかりを話すのですが、それがすべて私への要求のように感じ、ずいぶんわがままな人だな、と感じたのを今でも覚えています。

 でもそれは私の勘違いで、彼女はただ純粋に「おもしろそう」と思ったことを口に出しているだけだったのです。対する私のほうも「じゃあやってみようか」というタイプで、〝突飛なアイデア〟はどんどん形となっていきました。

 妻はいまもときどき「もし、わたしだけだったら、きっとこれで食べて行くことはできなかった」と言いますが、私もきっと妻と出会わなければ、〝ものづくりの好きなサラリーマン〟として生きていたような気がします。

生きる場所を与えたい

 「リップル洋品店」が軌道に乗り始めたのを機に、私は工務店を退職し、染色一本でやっていくことになったのですが、家にいて響と接する時間が増えるほど、彼の変わったところがいやでも目につくようになりました。

 携帯電話の次は、鉱物に夢中になりました。といっても、鉱物名を覚えるというよりは、形とか手触りとか、なにか感覚的に好きな石をかたっぱしから集めるような感じです。その量は膨大なものとなり、ほとんど家の床が抜けてしまう寸前になっていました。

 あるとき、大学教員の知人から「そんなに好きなら僕の鉱物コレクションをあげるよ」という申し出を受けたのですが、あまりにも大量で、さすがに断らざるを得ませんでした(じつは今でもそのことを根に持っているらしく、「あのときの石、もらっておけばよかった」と言ったりします)。

 機械式の時計の分解、という時期もありました。時計はいままで、何個壊されたかわかりません。目を離すとぜんぶ分解してしまうので、近くにはなるべく置かないようにしていました。

 それにしても、工作が好きで、手先が不器用なわけではないのに、なぜ響には文字が書けないのだろうという疑問が常にあって、私にはどうしても怠けているようにしか見えませんでした。

 学校の宿題なども、やろうとはするのです。机に向かってノートを開き、鉛筆を構えるのですが、そこでぴたっと手が止まってしまう。むりやり書かせれば書けなくはないのですが、どうしても枠に収まらない。これはほんとうに不思議でした。

 枠が「水に漬けたように滲んで」見えるというのが医師の説明で、赤い線を引いたりすると見えるようになることもあるらしいのですが、そういう手段が通用するのも小学校までです。中学校では、教師に頼んでテスト用紙に赤い線を引いてもらうことなど、望むべくもありません。

 「それが響なんだから」という妻と、なんとか生きる場所を与えたい私、そして〝ふつう〟にこだわる響との、試行錯誤の日々がはじまりました。